久しぶりに東北地方で大きな地震があった。そのニュースを見ていると、過去この地方を襲った大規模地震として昭和53年(1978年)6月12日,17時14分に発生した宮城県沖地震の映像がよく流れていた。実はこの時僕はまだ仙台に住んでいて被災している。
その日は珍しく夕方には帰宅していた。平日の昼間家にいる時は机の上に古雑誌を並べてドラムの練習をするのが普通だっが、その日はどういう風の吹き回しか二階の自室で勉強をしていた。そしてまず小さい地震がきた。といっても通常我々が経験する中ではまあ大きい方の揺れ方である。僕はイスから立ち上がると
「今のでびっくりしただろうな〜」
と、窓から近所の中学校の校庭で部活をしてる生徒たちを眺めて、
「それにしても最近地震が多いよナ」
と考えながら室内を振り返った、正にその時である。「どっどっどっどっ!」と今まで経験した事の無い縦揺れが始まった。ほんの数秒の事だったのが、台としてコンクリートブロックを下駄の様に履かせていたステレオのスピーカーのが、まるでボールの様に上下に飛び跳ねて「どたどた」と音をたてているのが記憶に残っている。そして横揺れが来た。振り返った状態で南側の壁に背を向けていたのだが、第一波でその壁に叩き付けられ体育座りの様にうずくまった。そして後は何もできず、本などが降ってくるのをただ声も出せずに見ているだけ。揺れがおさまって一階に降りてみるとあらゆる物が床に散乱して足の踏み場が無い状態。母も足の裏を何かで切ったようで、出血していた。その時家にいたのは母と僕の二人だったので手分けして後かたずけを始めた。とりあえず電気は止まったが日が長い季節だったのは幸いだった。電池のラジオを大きな音でかけて情報を聴く。とりあえず、大変な事になったのは十分判った。当時東北電力に勤務していた父から電話があり、無事を確認すると復旧の為に帰れないとの事。しかし市内の大学に行っている兄とは連絡がとれない。今の様に携帯が無い時代の話である。おまけに郊外に帰る為の電車が不通だ。
日が暮れて夜になった。その日何を食べたとか、停電がどの位続いたかとかの記憶は無い。水道とガスは被害が無かったと思う。やがて兄から、帰る事ができないので市内の友人宅に泊めてもらうと電話が入り無事も確認できた。地震と関係があるのか、その日は夜になって濃い霧が発生する。ラジオ放送は途中から一般の人の安否伝言も流しはじめた。
「××町の△△さん、息子さんが□□町の◇◇さんのお宅で無事です。」
なんて具合に。これは阪神大震災の時も行われたそうだ。興奮してなかなか寝れないまま、服を着たまま横になって一晩中そのラジオ放送を聴いていたのを覚えている。今回の地震でも興味ある体験をした。僕はその時友人の結婚式に参列する為軽井沢にいた。たまたま出席者に同郷の人がいて、その家族がテレビのニュースを見て携帯に電話をしてきたので地震の事を知る事ができた。当然二人とも携帯で実家に安否を問いただそうとする訳だが、僕のauの電話は二回目で通じた。ところがもう一人の方はdocomoなのだが、これが通じない。サッカーチケットの電話予約の時にお馴染みの
「こちらはNTTです。ただいまおかけになった電話は大変込み合ってかかりにくくなっています・・・」
というアナウンスが流れっぱなしだと言う。受信側の込み具合が問題なので、そのまま式に参列し小一時間ほど電話の事もほっておいた。そして式が終わり披露宴までの時間にまた電話をしてみると呼び出しもしないと言う。それは受信側の問題じゃ無いんじゃないかと思い
「試しに電話番号を教えて下さい。」
といって僕のauでダイヤルしてみると通じている。
「ちょっと!呼び出ししてるヨ!」
と、慌てて携帯をその人に渡した。いくらシェアが大きいと言っても一時間以上、二時間近く通じないのはどうなんだろう?明らかに需要に見合う回線の量ではないと感じるのだが・・・宮城県沖地震で僕が得た教訓を二つ話したい。一つ。
『固定してない物は全て落ちる』
家が無事で家具も倒れてなければラッキーだが、それでも床がガラスとかで一杯になると考えてもらいたい。深夜だったらけがは覚悟した方がいい。二つ目は
『揺れてる間は何も出来ない』
よく「すぐに火を消して」とか「机の下に隠れて」とか言うけど、本当の横揺れの時は立ってられないのだから何も出来ないと思った方がいい。自動の耐震消火装置とかが大事です。さて関東から東海地方まで、来る来ると言われ続けているが大きな地震は起きていない。宮城県沖地震程度の物でも発生し被害を被れば戒めにできるのに皆無である。これを読んでいる今、それはやってくるかもしれない。とにかく忘れずに備える事だ。